三島街道の由来

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三島街道の由来



 栃木県の塩原温泉から尾頭峠(現在の国道400号)を越え上三依へ通じる道は、明治以前から小道があったとされていますが、明治時代に入りこの道路の開削事業に取り組んだのが当時の栃木県令(現在の県知事) 三島通庸(みちつね) でした。山形県の米沢から宇都宮を結ぶ重要な道路として三島通庸が計画した道は、馬車や人力車が通れる程の幅員となだらかさを必要としましたが、当時の尾頭峠越えは峻険で通行が困難であると判断したため、塩原古町から善知鳥沢(うとうざわ)を廻って横川で男鹿川を越え県境の山王峠で会津西街道に合流するルートに変更されました。このルートが通称「三島街道」と呼ばれています。延長は約32Km、工事は延べ25万人を超える土工に加え村人や囚人までもが駆り出され、わずか10ヶ月で完成させたと書き残されております。時に明治17年のことでした。

当時の街道の様子は、この業績を残すため三島通庸の委託を受けた日本近代絵画の先駆者、 高橋由一(ゆいち) によって描かれた油彩画集「鑿道八景」によって往事を偲ぶことができます。中でも本県(栃木県)を描いた藤原町横川(現日光市横川)の 『男鹿川橋乃図』は傑作の一つとされており、開削当時の男鹿川橋周辺の風景が見事に描写されています。しかし、この由緒ある街道も明治26年には現在の尾頭峠越えのトンネル(国道400号)が開削されたことでわずか10年で廃道となり、今では山深くひっそりと往事の面影を留めるのみとなっています。



三島通庸(みちつね)
      詳細はこちらからhttp://shiobara.shokokai-tochigi.or.jp/chiiki/burari/rekishi/3onjin.htm
                   http://shiobara.shokokai-tochigi.or.jp/chiiki/burari/rekishi/mishima.htm

高橋由一(ゆいち)
      詳細はこちらからhttp://www.art.pref.tochigi.jp/jp/exhibition/c051023/main.html
                   http://www.b-sou.com/paljm-takahashiYuichi.htm



来由の道街島三